2011年5月22日 (日)

「ブラック・スワン」

Blackswan エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン」を思わせる描写に始まって、「レクイエム・フォー・ドリーム」的な展開になり、「ウィリアム・ウィルソン」で終わる。瀕死の白鳥のパートを瀕死の主人公に踊らせ、それが観客の喝采を集めるというアイデアが残酷だ。煎じ詰めて言えば、これは精神病患者の見る幻想を視覚的に描いた映画で、「レクイエム・フォー・ドリーム」で描かれたドラッグ中毒者の幻覚の変奏曲と言える。ストーリーそのものよりもそうした描写が際立っており、舞台で黒鳥を踊るシーンで主人公ニナの肌が鳥肌になり、黒い羽根がびっしりと生えていく描写などはその最たるものだ。フォックス・サーチライトの配給なので、元々はインディペンデント系の作品なのだろう。ナタリー・ポートマンが主演女優賞を取ったからといって、このダークな映画を完全なメジャー映画と見るのには少し無理がある。

主人公が精神を病んでいくのは母親との確執、ようやくつかんだ主役の座をライバルのリリー(ミラ・クニス)に奪われるのではないかという不安に加えて性的に未熟なことが影響している。主人公は、白鳥のパートは完璧に踊れても、官能的な黒鳥を表現できず、監督(ヴァンサン・カッセル)から“不感症の白鳥”と罵倒される。黒鳥が意味するものは「キャリー」のパイパー・ローリーを思わせる母親(バーバラ・ハーシー!)が抑圧するセックスにほかならない。母親は主人公を身ごもったためにバレエをあきらめた経緯があり、自分と同じ道を歩ませたくないという過剰な思いを持っている(自分が果たせなかった夢を子供に託す親ほど迷惑な存在はない)。主人公はそれによってプレッシャーを受けているわけだ。精神的に弱くて脆い主人公は黒を必要と感じ、それに憧れながらも否定するというアンビヴァレンツな感情と焦りが渦巻く。そして現実と幻想の区別がつかなくなっていく。幻想が日常に侵蝕してきて現実の行動を規定してしまうのである。

白と黒を対比しながら、黒が自分の“ダーク・ハーフ”であることを主人公は知ることになるのだが、映画はスティーブン・キング「ダーク・ハーフ」に出てきたドッペルゲンガーのような超常現象は登場せず、あくまでも精神病患者の幻想として終始する。「レクイエム・フォー・ドリーム」で老醜をさらしたエレン・バースティンのあり方は凄まじく悲惨だったが、この主人公には悲劇はあってもそこまでの悲惨さはない。それがメジャーの配給路線に乗せる限界であり、ダーレン・アロノフスキーが前作「レスラー」で一気にメジャーになったことの影響でもあるのだろう。よく言えば、描写のさじ加減にバランスが取れているのである。

ナタリー・ポートマンは熱演しているが、バレリーナの役柄なのであまりに痩せていて、セクシーさは感じない。それも役作りの一環なのかもしれない。

それにしてもバーバラ・ハーシーがすっかり年を取っていてびっくり。先日、「ウルフマン」を見た時にもジェラルディン・チャップリンの老け込みぶりに驚いたが、考えてみれば、2人が活躍したのは70年代なのだから仕方がない。

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2011年2月11日 (金)

「GANTZ」

「GANTZ」パンフレット 足を切断し、肉を切り裂き、頭を握りつぶし踏みつぶし、体が破裂する。ニノとマツケンを目当てに見に来た若い女性客を跳ね返すように、佐藤信介監督は序盤のネギ星人との戦いに血みどろの場面を繰り広げる。この次のいかにもロボットのような田中星人との戦いも重厚な迫力とスピード感たっぷり。VFXは普通の出来なのだが、この映画、描写に力がこもってる。田中星人というふざけたネーミングと外見にもかかわらず、この面白さは大したものだ。

GANTZとはいったい何なのか、星人たちはなぜ人間を襲うのかなどまったく説明されないけれど、映画には主人公が自分の力と使命を自覚していく(ヒーローとして覚醒していく)という1本の筋が通っており、十分に面白かった。内定ゼロで就職が決まらない大学生が自分の居場所を見つける話、と比喩的に受け取ってもかまわないだろう。佐藤監督作品としては釈由美子の悲痛な叫びが胸に残ったあの傑作「修羅雪姫」(2001年)につながる作品と言える。序盤のテンポをもう少し速くすれば、胸を張って傑作と太鼓判を押していたところだ。4月公開のパート2にも大いに期待する。

ここまで書いたところで30巻まで出ている原作の3巻までを読んだ。ネギ星人の場面は微妙に細部が異なるが、ほぼ原作を踏襲している。玄野計(くろのけい=二宮和也)と加藤勝(松山ケンイチ)は地下鉄のホームから落ちた酔っ払いを助けようとして電車にはねられる。気づくと、2人はマンションの一室にいた。そこにはガンツと呼ばれる黒い球体と同じように送り込まれたらしい数人の姿があった。部屋にいるのはいずれも一度死んだ人間だった。GANTZはネギ星人を倒すように指令を出し、玄野たちはネギ星人のいる街に送り込まれる。「ネギあげます」と震える子供のネギ星人を銃(撃った後、少し間をおいて相手を爆発させる)で惨殺したところで親の凶暴なネギ星人(フランケンシュタインみたいな外見だ)が現れるのがいかにもな展開。ここで送り込まれた数人が殺されるスプラッターなシーンとなる。辛くもネギ星人を倒した玄野たちは気づくと、自分の部屋にいた。夢だったのか? しかし、その夜、またしてもマンションの一室に召還されることになる。玄野たちは否応なく、戦いを強いられていく。

小学生のころ強かった玄野が加藤を助けたという設定からすれば、二宮和也と松山ケンイチの役柄は体格からいって逆の方が良いような気がするが、原作の2人も映画と同じ体格だ。玄野たちは星人と戦うために黒いGANTZスーツを着る。このスーツ、強化防護服(パワードスーツ)の一種で、身体能力を大幅にパワーアップし、攻撃から身を守る。いわば人を超人にするスーツだ。玄野がスーツの威力をためすため階段を高く高くジャンプするシーンは自分の進む道を自覚する良いシーンだと思う。ちなみにこのスーツを着た岸本恵(夏菜)の姿は綾波レイを思わせた。夏菜は昨年の「君に届け」に続いて魅力を発散している。川井憲次の音楽も相変わらず好調である。

4月23日に公開されるパート2は「Perfect Answer」というサブタイトルが付いている。個人的には謎に満ちた話の真相よりも主人公がヒーローとしてどう成長していくのかが気になる。くれぐれも「マトリックス」のような路線変更はなしにしてもらいたいものだ。

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2010年12月31日 (金)

「トロン:レガシー」

「トロン:レガシー」パンフレット  1982年の前作「トロン」は延々と普通の描写が続き、CGが始まったかと思ったらすぐに終わってしまった印象がある(パンフレットによると、CGのシーンは15分程度だったらしい)。CG自体は絵が変わっていてそれなりに面白く見たが、これでCG映画を標榜するのは羊頭狗肉に近いな、と思った。今回はCGだけはたっぷりある。前作にも登場したディスク・ファイトやライト・サイクル、監視用飛行マシンのレコグナイザーなどのシーンは随分パワーアップされ、スピード感を増して見応えがある。前作の主人公ジェフ・ブリッジスの若い姿もCGで表現されている。撮影は64日で終わったのに対し、VFXには68週もかかったそうだ。前作の監督スティーブン・リズバーガーは今回、製作に回っているが、CGの技術がまだまだだった28年前の捲土重来を果たす意図もあったのに違いない。サイバースペースの造型やスタイリッシュな衣装、重厚な音楽も良い。3Dにする必要はまったく感じないものの、ビジュアル的にはまあ、文句はない。

 ところが、前作同様にストーリーがいまいち面白くない。プログラムを擬人化するのは別にかまわないのだけれど、サイバースペースを牛耳る悪を倒すという話に新鮮さがないのだ。SFというよりはファンタジーの印象が強いのはSF的なアイデアがありふれているからだ(脚本は「LOST」のエドワード・キツイスとアダム・ホロヴィッツ)。11年前の「マトリックス」と比べてみれば、そのプロットの単純さはいかんともしがたい。CGの技術だけでなく、物語の技術に力を注いで欲しいものだ。

1989年、エンコム社のCEOとなったケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が失踪する。20年後、息子のサム(ギャレット・ヘドランド)は父親の共同経営者だったアラン・ブラッドリー(ブルース・ボックスレイトナー)から連絡を受け、ケヴィンが所有していた古びたゲームセンターに足を踏み入れる。コンピューターを操作していたサムを閃光が包み、気がつくと、サムはコンピューターの中の世界にいた。そこはクルーという謎の人物が支配する世界。クルーは外の世界への進出を目論んでいた。父親と再会したサムはクルーの野望を砕くため、父親とISO(アイソー)と呼ばれる自由意思を備えたプログラムのクオラ(オリヴィア・ワイルド)とともに奔走する。 

ギャレット・ヘドランドはこの映画で若手の有望株に躍り出たらしい。相手役のオリヴィア・ワイルドも良い。映画がなんとか持ったのはブリッジスを含めた役者の魅力と映像のおかげだろう。監督はこれがデビュー作でCMディレクター出身のジョセフ・コジンスキー。CM出身だから映像の見せ方はうまいが、物語を語る技術の方はリズバーガーと同レベルのようだ。

 

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2010年10月 2日 (土)

「十三人の刺客」

「十三人の刺客」パンフレット 脚本を担当した天願大介は永井豪「バイオレンスジャック」にインスパイアされたのではないか。両手両足を切断され、舌を抜かれた女が登場する場面を見てそう思った。スラムキングによって人犬にされた男女の姿は少年時代に「バイオレンスジャック」を読んだ世代に強烈な印象を残している。僕と同世代の天願大介が少年マガジンで「バイオレンスジャック」を読み、同じようにトラウマになるような強い印象を持ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。そうでなければ、映画「西太后」の線もあるが、「西太后」では舌は抜かれなかったし、描写の衝撃度から見ても「バイオレンスジャック」の方が可能性は高い。こういう感想を持った人は多いらしく、ネットで「十三人の刺客 バイオレンスジャック」のキーワードで検索すれば、たくさん出てくる。

となれば、狂気と凶暴さと知性を兼ね備えた将軍の弟で明石藩主の松平斉韶(なりつぐ=稲垣吾郎)はスラムキングの残虐さをイメージしたものなのかもしれない。ただし、三池崇史が撮ると、悲惨な女の描写はお歯黒と引眉のためもあって悲惨さの前にまず化け物のように感じる。まるでホラーだ。このショッキングな場面を子供が見たら、それこそトラウマになってしまうだろう。この女の姿を見せられて、主人公の幕府御目付役・島田新左衛門(役所広司)は心底怒りに駆られ、老中土井利位(としつら=平幹二朗)から命じられた斉韶暗殺を承諾することになる。もう一つ、主人公は見ていないが、縛った女子供たちを斉韶が至近距離から矢で射殺すという恐ろしく残虐な場面も、斉韶暗殺の正当性に説得力を持たせている。単なる凶暴なサイコ野郎ではなく、静かなたたずまいに狂気を忍ばせた稲垣吾郎、適役と言って良いほどの好演である。

工藤栄一の集団抗争時代劇を47年ぶりにリメイクしたこの作品、エネルギッシュに2時間半近くを突っ走る。旧作はビデオで見たためもあって、クライマックスの抗争で感心したのは剣の達人を演じた西村晃の鮮烈さ、格好良さだけだった。この新作もはっきり言って後半の50分に及ぶ大がかりなアクションは量が多いだけでやや質を伴っていないきらいはあるのだが、松方弘樹の立ち回りの速さを見せてくれただけでも価値がある。松方弘樹、ほれぼれするほどの殺陣であり、松方弘樹を主役に据えたアクション時代劇を撮ってくれと思えてくる。このほか市村正親、平幹二朗、松本幸四郎、岸部一徳らのベテラン俳優たちが脇を固める、というよりも映画の格を大きく引き上げている。

ベテラン俳優たちのキャラクターに息を吹き込んだ演技があるから、13人の刺客たちのアクションが生きてくる。松方弘樹は「実は殺陣って“動”ではなく、“静”の場面が大事なんです。…緩急をつけることで、より“動”を強調させるんですよ」と語っているが、それと同じことはこうしたアクション映画全体にも言えることなのだ。

市村正親はかつて西村晃の付き人だったそうだ。キネマ旬報9月下旬号のインタビューで市村正親は「巡り巡って(13人の刺客に敵対する)鬼頭半兵衛を演じるというのも、何か、この映画に縁を感じますね」と言い、その語りには師匠である西村晃への敬愛があふれている。松方弘樹は「僕は今でも父親が日本一立ち回りがうまいと思っています。僕はその父親へ近づけるように頑張ってきたんですよ」と話し、時代劇と父・近衛十四郎への愛情が満ちている。そうした過去の映画と映画人に対する敬意が、このアクション大作にアクションだけに終わらせない幅を与えている要因ともなっているのだと思う。

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2010年9月20日 (月)

「悪人」

「悪人」パンフレット 「そがん風にして生きていかんば。そがん風に人を笑うて生きていかんば」。
柄本明演じる佳乃(満島ひかり)の父親が佳乃を山道に置き去りにした増尾(岡田将生)に怒りを込めて言う。薄っぺらで見栄っ張りに生きている佳乃と増尾。それとは対照的な地味で控えめに生きざるを得ない清水祐一(妻夫木聡)と馬込光代(深津絵里)。一つの殺人事件を巡る人々を奥深く描いて、「悪人」は間然するところのない出来である。

李相日監督は極めて映画的なショット(例えば、病院で柄本明から娘の死を伝えられた宮崎美子演じる妻がくずおれる場面をセリフなしのシルエットで演出する)でシーンを構成し、社会から見れば取るに足りない存在、どこにでもいる取り柄のない男女の逃避行を描いて、痛切な青春映画として結実させた。情感を込めた久石譲の音楽も素晴らしく良い。モントリオール世界映画祭での深津絵里の主演女優賞受賞は作品全体に対して与えられたものなのだろう。さまざまなテーマを盛り込みながら、そのスタンスは一般庶民の立場に立ったものであり、だからこの映画のいろいろなショットは強く胸を打つのだ。この大衆性は李相日の前作「フラガール」とも無縁ではない。

長崎、佐賀、福岡を舞台にしたこの映画は方言で語られる言葉や描写の一つひとつにとても重みがある。映画を見終わった後に細部を振り返りながら、この重さと切実さは野坂昭如「心中弁天島」を映画化した増村保造「遊び」(1971年)に似ていると思った。関根恵子と大門正明の出会いとその道行きの切実さ。それはやはり若い2人の逃避行を描き、青春映画として帰結した「闇の列車、光の旅」(2009年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)とも通じるものだ。「闇の列車…」を見た時、貧しさが背景にあるこういう切実な青春映画は今の日本映画ではもう撮れないだろうと思わざるを得なかった。「悪人」はその考えを見事に打ち砕いてくれた。貧しさは絶対条件ではない。日常に満たされない思いとやりきれなさを抱いた男女の出会いがあればいいのだ。

もちろん、主演の2人の境遇が十分に豊かなわけではない。光代は佐賀県内の紳士服のフタタに勤め、妹とアパートで暮らしている。冷たい雨の中、自転車で帰れば、妹は男を引っ張り込んでいて、ドアにはチェーンロックがかかっている。ガタガタと寒さに震える光代の姿は凍えそうに空虚な日常を象徴しているようだ。幼稚園も学校も職場も家も国道のそばにあり、光代の人生はこの狭い範囲から外へ出たことがない。一方、祐一は幼い頃に母親(余貴美子)から捨てられ、長崎県の漁村で祖父母(井川比佐志、樹木希林)に育てられた。病気がちの祖父を病院に連れて行き、建物解体の土木作業員として毎日黙々と働き、家計を支える。唯一の趣味は(恐らく中古の)日産スカイラインGTRだ。「海のそばにある家なんていいわね」と言う光代に対して、祐一は「海が目の前にあると、ここから先にはどこにも行けないような気になる」と答える。

日常に縛られてどこにも行けない人生。どん詰まりの人生を生きている2人が出会い系サイトで知り合い、深く理解し、求め合う。もっと早く出会っていれば良かったのに、と思う。しかし、その時、既に祐一は悲劇的な殺人を犯しているのだ。自首しようとする祐一を光代は引き留め、灯台に向かう。灯台は祐一と母親の悲しい思い出につながる場所だ。灯台でのひとときはそれが終わりを迎えることが分かっているからこそ痛ましい。いったん警察に保護された光代は隙を見て逃げだし、傷だらけになりながら再び祐一のいる灯台、初めて生きる充実感を与えてくれた祐一のいる灯台を目指す。

佳乃の父親は久留米の寂れた理容店の店主である。軽薄な娘の父親ではあっても、むしろ祐一の側に立つ人間だ。だから怒りの矛先は増尾に向かうのだろう。映画は善良に生きている庶民の立場に立って組み立てられている。李相日と原作者の吉田修一が書いた脚本にはこの点でまったくブレがない。加えて、マスコミに追いかけられる樹木希林の祖母を通して、君塚良一「誰も守ってくれない」のように犯罪加害者の家族の問題も盛り込んでいる。樹木希林の演技は絶妙と言うほかなく、助演女優賞は決まりではないかと思う。

増尾が乗る車は原作ではアウディA6となっているが、映画に登場するのはアウディQ5。普通の若者には手に入らない高級車であることに違いはない。目の前で佳乃が増尾のこの高級車に乗るのを見た祐一は一瞬、顔を歪ませて激怒する。妻夫木聡、この表情がとてもうまい。嫌な役柄を嫌なキャラクターとしてだけではない深みを交えて演じた満島ひかりと岡田将生も立派。出演者の演技がこれほど充実しまくった映画も珍しい。

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2010年7月10日 (土)

「ロストクライム -閃光-」

「ロストクライム -閃光-」パンフレット  「プライド 運命の瞬間」以来12年ぶりの伊藤俊也監督作品で、3億円事件を題材にしたサスペンス。永瀬隼介の原作「閃光」を長坂秀佳と伊藤監督が脚色している。話の構成自体は悪くないと思うが、至る所に演出の細かい齟齬がある。それが集積して映画全体として面白みに欠ける作品になってしまった。12年間のブランクが悪い方に影響したのか。といっても、僕は伊藤俊也の作品に思い入れはないし、面白いと思った作品も少ない。相性とかそういう問題ではなく、この人、演出上のテクニックはあまりないと思う。社会派の監督でもなく、「さそり」のようなシャープなB級作品に本領を発揮するタイプなのだろう。

 隅田川で絞殺死体が発見される。定年を2カ月後に控えた刑事滝口(奥田瑛二)は捜査メンバーに名乗りを上げる。コンビを組むのは若手の片桐(渡辺大)。滝口が事件に関心を持ったのは殺された男葛木が3億円事件の容疑者の1人だったからだ。1968年12月10日、偽白バイ警官が現金輸送車から3億円を奪った事件。負傷者はなく、現金は保険会社が支払い、誰にも被害を及ぼさなかった(保険会社が一番の被害者か)。既に公訴時効が成立したが、滝口をはじめ捜査関係者は当時、複数の犯人グループを突き止めていた。それなのになぜ、逮捕しなかったのか。映画は事件の真相を徐々に明らかにしながら、現在もなお、真相を隠蔽しようとする警察上層部と事件に絡んだ連続殺人を描いていく。

 現在の連続殺人が過去の事件につながっていくというのはミステリでは極めてよくある設定だ。この映画(原作)が、そのスタイルを踏襲しているのは間違いではない。ただし、3億円事件の真実を描くわけではなく、単なる想像の産物なのだから、本来ならば、連続殺人の捜査をしていたら、偶然3億円事件に行き当たったという構成の方が良かったかもしれない。それにこの事件の真相に驚きはなく、警察の隠蔽の理由も説得力を欠く。そう思えるのは映画に力がないからだろう。ドラマの構築が弱いのだ。個人と組織の対立の構図を描く映画がかつて好きだった。この映画もその構図に当てはまるのだけれど、演出が大仰で古いパターンのように思え、これが組織ぐるみで隠蔽に値するような内容かと疑問を持ってしまうのだ。

 今年60歳だからこの役柄も不自然ではないが、奥田瑛二は定年前には見えず、その演技も僕には全然うまいとは思えない。渡辺謙の息子、渡辺大は色に染まっていないのが良いところだろうが、主役を張るほどの貫録はない。他のキャストはかたせ梨乃、宅麻伸、中田喜子、烏丸せつ子、夏八木勲ら。これは70年代の映画か、と思えるような布陣だ。68年の事件を題材にしているため、というよりは監督の趣味なのではないかと思う。かたせ、中田にはそれぞれラブシーンがある。どちらも不要に思えた。監督は娯楽映画のサービス精神でこういうシーンを入れたのかもしれない。その考えも古い。

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2010年6月20日 (日)

「アイアンマン2」

「アイアンマン2」パンフレット 「私が作った最高の作品はお前だ」。父親のハワードが残したフィルムの中で話すのをトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)が聞くシーンがある。父親と息子の関係を描いて良いシーンなのだが、ジョン・ファブロー監督はこのあたりを前面に持って行く気はあまりないらしく、その後はほとんど忘れ去られたシーンになってしまう。VFXをはじめビジュアル的には文句ないのだが、こういうドラマの根幹をさらりと描いていることが演出に大味さを感じる要因か。ドラマティックな盛り上がりにやや欠けるのだ。

とはいってもダウニー・ジュニアのキャラにマッチした主人公は軽薄で楽しく、おかしく、娯楽作品としてはまず合格点。クライマックスに大挙登場する無人のパワードスーツ、つまりロボットたちはガンダムの影響を感じさせる造型で、これはロボットアクションとして見てもなかなか面白い。

前作から2年ぶりの続編である。個人的に1作目はその年のベストテンに入れるほど好きだった。今ではすっかりおなじみになったパワードスーツ(強化防護服)という概念はロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」に端を発すると言って良いと思うが、その映画化であるポール・バーホーベン「スターシップ・トゥルーパーズ」ではパワードスーツがまだ描けなかった。「アイアンマン」ではVFXの進歩とともにそれが普通に描けるようになったのが嬉しかったし、映画にユーモアが混在していたのが良かった。

今回も映画のタッチは前作と変わらない。新たな敵はスタークとその父親に恨みを持つロシア人のウィップラッシュ(ミッキー・ローク)と、兵器商人のジャスティン・ハマー(サム・ロックウェル)。これにパワードスーツの動力源であるアーク・リアクターがスタークの体をむしばむという設定が加わる。内外の敵にアイアンマンはどう挑んでいくのか。

トニー・スタークというキャラクターがマーベル・コミックスの原作でも極めてお気楽なキャラであるかどうかは知らないが、映画ではダウニー・ジュニアが演じることで、キャラクターに人間的な幅が出ている。天才的な頭脳を持つ富豪でありながら、親近感が持てるのはそのためだ。ダウニー・ジュニアは「シャーロック・ホームズ」でも前例がないようなホームズを演じていたが、キャラクターを自分に引き寄せて演じるメリットはこの映画でもうまくいっていると思う。

特筆すべきは新キャラクターのブラック・ウィドーことナタリー・ラッシュマンを演じるスカーレット・ヨハンソンのアクションで、ほとんど吹き替えだろうが、ぴっちりした黒のコスチュームを着た抜群のスタイルが躍動する姿はほれぼれするほど。3作目にも引き続き出て欲しいところだ。

気になるのは前作に続いて登場するニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)。アイアンマンのほかハルクなどスーパーヒーローを集めたアベンジャーズの構想を語るのだけれど、これの映画化は実現するのだろうか。

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2010年4月11日 (日)

「第9地区」

「第9地区」パンフレット 主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ(シャルト・コプリー)が第9地区でエイリアンの謎の黒い液体を浴び、徐々に肉体がエイリアン化していく過程を見て、まるで塚本晋也「鉄男」のようだと思った。「鉄男」はホラーだったが、「第9地区」は社会派の要素も取り込んだSFエンタテインメント。難民キャンプに押し込められた180万のエイリアンたちは人種差別や難民差別を容易に思い起こさせる。

この構成はエイリアンの科学者への弾圧をユダヤ人迫害に見立てた1980年代のテレビドラマ「V」の例もあるので、目新しいとは言えないし、これがテーマかと言えば、むしろエイリアンと地球人の相互理解と交流の方が中心になっていて、それならば、過去の映画にたくさんの例があるなと思うのだが、過去のSFの模倣に終わらせず、さまざまな要素を独自の物語の中に溶け込ませている点が良く、きっちりと作っている点に好感を持った。枝葉末節にオリジナルな部分は少ないにもかかわらず、全体としてはとてもオリジナリティーを感じる作品だ。

クライマックスに活躍するパワードスーツが超国家機関MNU(マルチ・ナショナル・ユナイテッド社)の傭兵から大量の銃弾を浴びせられて倒れるシーンは「ロボコップ」を思い起こさせ、実写のパワードスーツと言えば、「エイリアン2」のパワーローダーが嚆矢だよなと思っていたら、監督のニール・ブロムカンプはSF映画のファンであり、好きな映画の中にこうした作品も入っているそうだ。ついでに言えば、倒れたパワードスーツがプシューっと開き、中の人間が顔をのぞかせるシーンの呼吸は「パトレイバー」や「攻殻機動隊」など日本製のロボットアニメの数々を参考にしたのに違いない。監督自身は「攻殻機動隊」と「アップルシード」の影響を認めている。

そうした過去の映画のエッセンスを31歳のブロムカンプは血肉にしているのだろう。次作は大量のロボットが登場する映画ということを聞けば、架空のニュース映像で構成される序盤は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」などPOV(ポイント・オブ・ビュー)の映画ではなく、これまた「ロボコップ」の方が頭にあったのかもしれないなと思う。ヨハネスブルグ上空に浮かぶ巨大な宇宙船の光景はとてもシュールだ。そのシュールさ、日常の中の非日常にリアリティーを持たせるためのニュース映像の手法なのだろう。

エイリアンたちは強力な武器を持っているが、DNAが合致しないと動作しないため人間には操作できない。体の一部がエイリアン化したヴィカスにはそれが可能なため、ヴィカスを巡る争奪戦がメインプロットになる。争奪に加わるのは軍事企業の側面を持つMNUと、第9地区に住むナイジェリア人のギャングたち。恐ろしいことにヴィカス個人の命など何とも思ってない非情な連中である。スラム化した猥雑な第9地区を舞台に中盤からは三つどもえのアクションに次ぐアクションとなる。序盤がやや退屈なのは中盤以降の展開に説得力を持たせるタメの部分だからなのだろう。28年間、静止していた宇宙船がついに動き出すクライマックスとヴィカスの運命。さまざまな問題点を残したまま映画は終わり、続編に期待を抱かせる。

ブロムカンプの本当の評価も次作の出来がカギを握るだろうが、SF好きの監督が出て来たことはSFファンとしてはとても嬉しい。

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2010年4月 3日 (土)

「花のあと」

「花のあと」チラシ いくらなんでも以登(北川景子)の表情の乏しさは欠陥以外の何ものでもないだろうと最初は思った。表情や感情に乏しいのは以登が剣の試合で一瞬心を通わせる江口孫四郎(宮尾俊太郎)も同様で、人なつっこい笑顔を見せ、表情豊かな片桐才助(甲本雅裕)が登場してからは、なおさらこの2人の演技の未熟さが目立ってしまう。しかし、同時に2人の純情さ、若さゆえの一途さが浮かび上がることにもなっている。

この一途な2人に比べると、食欲旺盛でやや下品な片桐は当初、俗物にしか見えないのだが、映画が肯定しているのはむしろ、片桐の姿にある。物事の判断が大人であり、懐が広い。片桐は人間的な幅の広い魅力を備えていることが徐々に分かってくるのだ。ラストのナレーションで片桐が筆頭家老にまで上り詰めたことが言及されるが、確かにそれにふさわしい人物のように描かれている。表情に乏しかった以登がラストで満開の美しい桜を見限って片桐の方を向き、初めて笑顔を見せるのは、だから当然なのだろう。以登は一瞬の恋心を経て、人間の本質と本当の愛を知ることになるのだ。それを考えると、生硬と言いたくなる北川景子の演技も中西健二監督の計算のうちだったのではないかと思えてくる。

藤沢周平の短い原作は以登と孫四郎の関係が中心である。「恋などというものは、そなたらが夢みるようにただ甘し、うれしのものだけではないぞや。いっそ苦く、胸に苦しい思いに責めらるるのが、恋というものじゃ」。映画にもあるこのナレーション通りに、女剣士以登と羽賀道場で一番の使い手である孫四郎の一瞬の恋の行方を描いている。原作の以登は美人とは言えず、容貌を気にしている。孫四郎もハンサムな男ではない。美男美女をキャスティングした映画はまずそこから作りを変えており、それもまた片桐の魅力を強調するためだったのではないかと思う。

打ち合っているうちに、以登はなぜか恍惚とした気分に身を包まれるのを感じた。身体はしとどに濡れ、眼がくらむような一瞬があったが、その一瞬の眼くらみも、不快感はなくてむしろ甘美なものに思われた。照りつける日射しのせいだけではなかった。どうしたことか、身体は内側から濡れるようであり、恍惚とした気分も、身体の中から湧き出るようである。

孫四郎との試合で原作の以登はこういう高ぶりを覚える。桜の下で声をかけられ、孫四郎と試合がしたいと思った以登の気持ちは実は孫四郎を恋する気持ちだったわけだから、それが成就したことの高揚感がこうなるのは実に理にかなっている。映画はこれを「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように視線を交わす2人に象徴させている。これはうまい場面だ。このほか、原作の行間を埋め、細部を膨らませた脚本は良い出来である。

しかし、この映画の成功がそれ以上に甲本雅裕の存在にあるのは間違いない。初めは眉をひそめたくなるような振る舞いがそのうちに思わず微笑みたくなってくる。以登や孫四郎のように一直線の人間にはないぬくもりが感じられて好ましいのである。映画を支えるしっかりした演技だと思う。

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2010年3月22日 (月)

「ハート・ロッカー」

「ハート・ロッカー」パンフレット イラク戦争の爆発物処理班を描いたサスペンス。アカデミー作品、監督、脚本賞など6部門を制した。それだけではなく、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンと全米の批評家協会が作品賞を与えた。アメリカ国内では高い評価を受けている。では、これが傑作かと言うと、映画の技術に限れば、という条件が付くことになる。爆弾処理という狭い範囲を完璧に作っただけで描かなかったものの方に重要なものがあるのだ。

キネ旬の特集記事によれば、イラク戦争の映画はことごとくアメリカの観客に受け入れられなかったが、この映画だけは受け入れられたそうだ。それも当然の内容と思う。戦争の意味に目をつぶり、米軍内の、それも爆発物処理だけを描いて何の意味があるのかと思う。これならば、アメリカ侵略主義への批判を内包した「アバター」の方がまだ志は高い。定点観測をすることで、全体の問題を浮き彫りにする手法はあるのだけれど、この映画の場合それもない。批判精神に欠けた、ただのエンタテインメントに近い映画であり、ある意味、イラク戦争肯定映画的な内容と言っていい。だから米国民ではない我々としては見ていて不満がむくむくと頭をもたげてくるのである。

キャスリン・ビグローにとってはメルトダウンの危機に瀕したソ連の原子力潜水艦乗組員を描いた「K-19」から7年ぶりの監督作品。狭い範囲を描く手法は「K-19」と同じなのだが、アメリカがイラクで行ってきたことを思えば、この手法では物足りなくなる。ふと思い浮かべたのはマイケル・チミノ「ディア・ハンター」で、あれもベトナムの民族解放戦線をまともに描いていなかった。あの映画の場合、米国内でも批判が噴出したのだが、今回、それがないのはイラク戦争がベトナム戦争よりまだ短い期間だからか。あるいは慎重に批判を封じるような作りになっているからか。描かなかったことに対する批判はできても、少なくともこの映画に描かれたことに重大な間違いはないのだろう。

2004年夏、イラクのバグダッド郊外が舞台。主人公はブラボー中隊に配属されたウィリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)。これまでに873個の爆弾を処理してきたベテランだ。映画は冒頭、防護服を着た爆弾処理兵が爆風に巻き込まれて死ぬ場面を見せる。防護服を着ていたからといって、安全ではないのだ。中隊は次々に爆発物を処理し、その緊張感と危険が十分に描き出されていく。中盤、800メートル離れた敵の狙撃手との行き詰まる攻防のシーン(見ていて「山猫は眠らない」を思い出した)などにビグローの演出は冴え渡る。女性監督なのに男っぽい演出に長けた監督である。この人、恋愛映画など軟弱な映画は撮ったことはなく、いつも題材は男っぽい。そしていつもエンタテインメントだ。シーンを的確に撮ることは得意だが、社会派的な題材の処理には慣れていないのだと思う。

「戦争は麻薬と似ている。一度味わうとクセになる」という冒頭の字幕に呼応する行動を主人公は取る。問題はどこが麻薬と似ているかを十分には描いてくれなかったことだ。死と隣り合わせの戦場に麻薬に似た快楽を覚える変わった兵士も中にはいるかもしれない。しかし、大部分にとっては恐怖以外の何ものでもないだろう。それを麻薬と言い切る内容は映画では描かれなかった。どこか歪な印象を受けるのはこうした映画の作り自体に無理があるからではないか。

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