2009年7月12日 (日)

「モンスターVSエイリアン」

Monster  エイリアンの巨大ロボットに対峙した大統領がキーボードで「未知との遭遇」の5音階を弾く。エイリアンとコミュニケーションを取る手段と言えば、未だにこれが真っ先に思い浮かぶが、調子に乗った大統領はハロルド・フォルターメイヤー「アクセルF」(「ビバリーヒルズ・コップ」のテーマ)も弾いてしまう。こうした過去の映画のさまざまなパロディや散りばめられたギャグも楽しいけれど、まず友情と正義、人は見かけじゃないことをしっかりと伝えていることが成功の理由だろう。危地に陥った仲間のモンスターを助けるために主人公スーザンが取る選択は人として理想的なもので、ドリームワークスの3DCGアニメもピクサーみたいになってきたなと思う。子供を安心して連れて行けて、大人も楽しめるファミリー映画の佳作。

 スーザンはテレビキャスターのデレクとの結婚式の当日、隕石の直撃を受け、身長15メートルに巨大化してしまう。軍隊に捕まったスーザンが目を覚ますと、そこには半猿半魚のミッシング・リンクやゴキブリと合体したマッドサイエンティストのコックローチ博士、ゼラチン状のボブ、巨大なムシザウルスがいた。これらのモンスターたちはモンガー将軍によって捕獲され、秘密基地に閉じ込められていたのだ。その頃、邪悪なエイリアンのギャラクサーが地球征服をたくらみ、攻撃を仕掛けてくる。モンガー将軍は大統領にモンスターたちの出動を進言する。

 巨大化したスーザンがデレクのジコチューな本質に気づくあたりが真っ当な展開で、こういう部分がないと、単なるコメディ映画になってしまう。スーザンの元ネタは「妖怪巨大女」(およびリメイクの「ジャイアント・ウーマン」)。ミッシング・リンクは「大アマゾンの半魚人」、コックローチ博士は「蠅男の恐怖」(リメイク版は「ザ・フライ」)、ボブは「マックイーンの絶対の危機」(同「ブロブ 宇宙からの不明物体」)と50年代SF映画のモンスターが元になっている。ムシザウルスのみ不明だが、放射能で巨大化したのを見ると、ゴジラとモスラを組み合わせたものだろう。製作者たちがこういうSF映画を好きなのがよく分かるキャラクター作りだ。

 監督はロブ・レターマンとコンラッド・バーノン。レターマンは「シャーク・テイル」の監督で次作は「ガリバー旅行記」をテーマにしたコメディというから、本作はその足がかりにもなったのか。バーノンは声優でもあり、「シュレック2」で監督を務めた。 

 3D版は日本語吹き替え版のみになるが、スーザンを演じるベッキーをはじめ声優は悪くなかった。3D効果は満点で、思わず手を伸ばしたり、向かってくる物体を避けたくなる。3D眼鏡は僕には違和感はなかったが、一緒に見た次女は眼鏡が大きくて合わず、気分が悪くなった。コストはかかるかもしれないが、大人子供兼用ではなく、子供専用の眼鏡も用意した方がいいだろう。

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2009年7月 1日 (水)

「歩いても歩いても」

 海で溺れた子供を助けようとして命を落とした長男順平の15回忌に集まった家族の1日を描く。亡くなった長男というと、まるでロバート・レッドフォード「普通の人々」のようなシチュエーションだが、あの映画ほどギスギスした厳しい展開はなく、何も起こらないのが逆に良い。普通の家庭の普通の人々がその心の中には何らかのわだかまりを持っている。それが会話の中に時折ふっと意図しないのに浮上して、それを聞いて心を少し痛める人がいる。ちょっとぎくしゃくしながらも家族は続いていく。そうした日常の光景を丹念に描いて是枝裕和、うまいと思う。血肉の通ったユーモアと優しい視点が映画に溢れている。かつての日本映画は小津安二郎をはじめ、こういうホームドラマが多かったが、今は極端に少ないだけに貴重な作品だ。

 優秀な兄が死んで出来の悪い弟が生き残る。家族の中には死んだ長男の影が重く横たわっているという設定は「普通の人々」に限らず、過去の映画や物語に例がある。そういう作品の場合、クライマックスには何らかの感情の爆発があり、それが収束していくというパターンが多い。この映画のそれは黄色いチョウチョになるのだろうが、ずっと穏やかだ。「黄色いチョウは白いチョウが死なずに1年たって帰って来たもの」という母親の言葉は死んだ長男と重なっている。墓地で見つけたその夜、家の中に入ってきたチョウを母親が、「順平が帰ってきた」と言って追いかける。「逃がしなさい」という父親。母親がおかしくなったんじゃないかと思う次男。さざ波は立つけれども、破壊的にはならず、やがて収まる。いかにもありそうな描写だ。

 父親と息子の関係、その息子と義理の息子との関係、母親と嫁の関係、姉夫婦と両親の関係が日常会話の中で見事に浮き彫りになっていく。「歩いても歩いても」のタイトルは母親が好きないしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」から来ている。「小舟のように揺れる」家族がそれでも続いていくのを象徴しているのだろう。

 ゴンチチの優しい音楽と阿部寛、夏川結衣の次男夫婦が素敵だ。キネマ旬報ベストテン5位。それだけではなく、海外の多くの映画祭で受賞している。こういう家族の問題は世界に共通するのだ。

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2009年6月29日 (月)

「愛を読むひと」

「愛を読むひと」パンフレット  どんな境遇にあっても人は物語を求める。主人公のハンナ・シュミット(ケイト・ウィンスレット)がアントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」(The Lady with the Dog)を刑務所の図書館で借りる場面には高揚感と同時に胸に迫るものがある。ハンナはマイケル・バーグ(レイフ・ファインズ)が朗読したテープでこのタイトルを聞いて単語の数を数え、1ページ目に"The"を発見し、「The、The、The」とつぶやく。ハンナにとって、これは新しい世界、自分が切望していた物語の世界に自分の力だけで近づく第一歩となった。戦犯裁判で筆跡を調べるために自分の名前を書くように要求される場面があるから余計に胸に迫るのだ。

 ハンナの生い立ちに関して映画は言及しないが、恐らく貧しい家庭に生まれ育ったのだろう。裁判でハンナ1人に罪を押しつけようとするかつての同僚の女たちの姿には腹が立つが、ハンナはそれに抵抗することができない。他人に言えない秘密を持った人間は、たとえそれが世間から見れば些細なことであっても、常にそれに苛まれる。だからこそハンナには、たくさんの物語を朗読してくれた21歳年下のマイケルと関係を持っていた時期が幸福に輝いたに違いない。

 ベルンハルト・シュリンクの原作「朗読者」は9年前に読んだが、短くて物足りなかった。もっと詳細な描写が欲しいと思った。しかし、映画化するにはちょうど良い長さだったようで、スティーブン・ダルドリー監督は情感たっぷりの描写を重ねてほれぼれするような傑作に仕上げた。ケイト・ウィンスレットは短くて物足りない原作の行間を埋めるような細かい演技を見せる。前半の官能的なラブシーンにも目を奪われるが、後半、戦犯裁判から刑務所に至る厳しいシーンにもリアリティがあふれる。アカデミー主演女優賞は当然だなと思った。当初キャスティングされていたニコール・キッドマンの硬質の美貌よりも、生活感をにじませたウィンスレットの方がこの悲しい映画のヒロインにはふさわしい。時間軸を前後に動かして語るデヴィッド・ヘアの脚本とダルドリーの緊密で的確な演出、出演者の好演が相まって原作を超える作品になった。

 自分の力だけではどうすることもできない境遇に置かれた人間が命令に忠実に従ったことによって罪を犯す。映画は「私は貝になりたい」のようにBC級戦犯にある程度共通していたであろう問題を根底に置きながら、やはりそれを許すことはできないと結論する。客観的にそれは正しいのだろうが、罪に問われた人間の本当の姿を知る人にはそれだけのことではない。それを同時に提示している。朗読者であり、ハンナの唯一の理解者であったマイケルの現在の苦悩を描くことで深い奥行きのある作品になった。1人の女の生涯を描くことでさまざまな問題を浮かび上がらせるという優れた物語が持つ多面的な魅力をこの映画もまた持っている。

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2009年6月21日 (日)

「トランスフォーマー リベンジ」

「トランスフォーマー リベンジ」  前作はあまりの子供っぽさに唖然とした。今回はその反動か、主人公が大学生になったためか、子供っぽさは随分抑えられたが、下ネタがやや過剰だ。これだと前作のように夏休みのファミリー向け映画としては売りにくいだろう。マイケル・ベイの演出も相当に雑、というか大雑把である。物量を駆使したVFXとアクションは確かに凄い。だが、金属生命体の動きが立体感に乏しい場面もあったりして、見ているうちに飽きてくる。きっちりドラマを作った上でのスペクタクルじゃないと、面白さが半減してしまう。毎度のことながら、どうもベイの演出、ドラマをないがしろにしがちなのである。面白かったのは人間に変身したディセプティコンの女(イザベル・ルーカス)が突然正体を現し、長い金属の舌を主人公の首に巻き付ける場面。川尻善昭「妖獣都市」冒頭のエロティックな蜘蛛女を思わせた。巨大ロボットばかりではなく、こういうのをたくさん出して欲しかったが、そうなると、トランスフォーマーではなくなるかもしれない。前作に続いて普通の青年のシャイア・ラブーフとセクシー度を大幅にアップしたミーガン・フォックスは良かった。

 前作から2年。主人公のサム・ウィトウィッキーは大学に入学し、ガールフレンドのミカエラ・ベインズ、両親とは離れて暮らすことになる。引っ越しの日、2年前の戦いで着ていた洋服からオールスパーク(金属に生命を吹き込む力を持つキューブ)の破片が落ち、それに触ったサムは記号や文字の幻覚が見えるようになる。一方、オートボットとディセプティコンの戦いは続いていた。ディセプティコンたちは太陽を破壊する兵器に必要なマトリクスの隠された場所を探していた。その地図はサムの頭の中にあり、サムを狙ってくる。オートボットのオプティマス・プライムはサムを守ろうとして破壊されてしまう。サムはオプティマスを復活させるため、マトリクスを探してエジプトに向かう。

 クライマックスはエジプトのピラミッドを舞台にしたアクション。ピラミッドがガラガラと崩れていく場面や多数のロボットが入り乱れた戦いを見せ、見応えはそこそこあるのだが、それまでにも巨大ロボット同士の戦いをさんざん見せられているため、驚きはない。ロボットの戦いとドラマにもっと緊密な結びつきが欲しいところだ。と、スケールはアップしていても、前回と同じような感想になってしまう。

 パンフレットによれば、マイケル・ベイは007シリーズのようにアクション専門の第2班監督を置かず、アクション場面もすべて自分で演出するそうだ。アクションに自信があるのだろう。逆に言えば、だから全体を第2班監督が演出したような出来にしかならないのだ。あり得ないことだけれど、ベイはアクション専門にして、全体をスピルバーグが演出すれば、もっと面白くなるのではないかと思う。それと、サムの愛車カマロから変身するバンブルビーが別れの場面で膨大な量の水を流す場面など、僕には不要に思える。お茶目でユーモラスなこういうシーン、お子様と女性しか喜ばない。

 このカマロもそうだが、この映画、前作に続いてGMが全面協力したそうで、大いにPRになっている。ツインズが変身する小型車シボレー・ビートは韓国のGM大宇(デウ)と共同製作し、今年発売される。国有化されたGM、これでトランスフォームできるか。

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2009年6月 7日 (日)

「ターミネーター4」

「ターミネーター4」パンフレット  心臓と脳は人間で体は機械。映画にサイボーグという言葉は出てこないが、マーカス・ライト(サム・ワーシントン)はサイボーグにほかならない。同じ構造のロボコップがそうであったようにマーカスにも悲哀が漂う。スカイネットによる核戦争が勃発したジャッジメント・デイ(審判の日)の後、機械が支配した未来社会での人類の抵抗戦を描くこの映画、マーカスという新キャラクターを作ったことで作品に奥行きが生まれた。ジョン・コナーよりもカイル・リースよりも苦悩を背負うマーカスの方が主役にふさわしい深みを兼ね備えているのだ。

 アメリカでのややネガティブな評価を読んでいたし、脳天気な「チャーリーズ・エンジェル」の監督という先入観があったのでマックGの演出にも不安を持っていたが、単なるSF戦争アクションではなく、そうした奥行きがあることで評価できる作品になったと思う。明るい「スター・トレック」とは正反対の暗さのため万人受けはしないと思うが、マーカスの行く末を知るためにも続きが見たくなる。惜しいのはジョン・コナーの運命。製作者たちにもう少し見識と勇気があれば、あそこでああいう展開にはしなかっただろう。斬新な映画になり損ねたのが悔やまれる。

 兄と警官2人を殺したマーカスは2003年、死刑になる。その直前、サイバーダイン社のセレーナ・コーガン(ヘレナ・ボナム・カーター)と献体の契約を交わしていた。2018年、マーカスはなぜか復活し、抵抗軍のLA支部にいたカイル・リース(アントン・イェルチン)と出会う。支部といっても、カイルと口のきけない少女スター(ジェイダグレイス・ベリー)の2人だけ。マーカスは行動をともにするが、カイルとスターは大型輸送機トランスポートに捕らわれ、スカイネットの基地に連れ去られてしまう。マシンの一番の標的はジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)の父親となるカイルだった。救援に現れた戦闘機A-10の女性パイロット、ブレア・ウィリアムズ(ムーン・ブラッドグッド)に導かれ、マーカスは抵抗軍の基地に向かう。そのころ、抵抗軍はマシンを制御する短波を発見、4日後にスカイネットの基地に総攻撃をかけることを決断する。人質を見殺しとする司令部の方針にコナーは反対し、カイル救出に向かう。

 カイルを演じるアントン・イェルチンは「スター・トレック」のチェコフ役。ロシア語なまりの英語とたぐいまれな才能を発揮する場面で大いに笑わせてくれたが、今回はシリアスな演技を見せる。クリスチャン・ベイルは「ダークナイト」に続いて暗い演技で悪くはない。しかし、この映画で光っているのはサム・ワーシントンとムーン・ブラッドグッドだ。マーカスの正体を知ったブレアはそれでもマーカスを逃がそうとする。スカイネットの基地で自分の本当の役割を知らされるマーカスの姿は悲しい。「司令部は、マシーンのように冷徹に戦えという。我々は人間だ。マシーンと同じなら勝利になんの意味がある」。そういうコナーのセリフと相まって、機械と人間の違いというテーマをもっと前面に出していれば、映画は「ブレードランナー」に連なる傑作と胸を張って呼べたことだろう。

 スケールの大きなアクション場面などマックGの演出はほめるべきだが、テーマを深化させるところで配慮がやや足りなかった。SF戦争アクションのその先に到達しそうでしなかったのはかえすがえすも惜しい。

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2009年6月 6日 (土)

「スター・トレック」

「スター・トレック」パンフレット  ロミュランの宇宙船からバルカン星に伸びるパルス兵器を破壊するため、シャトルから飛び降りるカーク、スールーら3人の場面からバルカン星のブラックホールによる崩壊、惑星デルタ・ヴェガのモンスターとのチェイス、そしてレナード・ニモイの登場へと至る中盤が圧倒的に素晴らしい。たたみかけるような演出とはこういうシークエンスの連続を言うのだ。それよりも何よりもニモイのシワが刻まれた顔は「スター・トレック」の長い歴史の象徴であり、見ているこちらも感慨を覚えてしまう。僕はテレビシリーズ「宇宙大作戦」は熱心に見ていたが、劇場版はそんなに追いかけていず、ネクスト・ジェネレーションの話はほとんど知らないし、興味もない。それでもニモイを登場させたことによって、この映画がシリーズを再起動させる成功につながったことは疑いようがないと思う。原典への敬意を忘れない作りが好ましい。テレビシリーズで毎回流れたナレーションと音楽が再現されたラストはトレッキーたちを狂喜させるに違いない。「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と同様に第1作につながる作りなのである。

 急いで付け加えておくと、この映画は「スター・トレック」の始まりの物語であり、これまでのシリーズを見ていなくても十分に楽しめる。単なる前日談に終わっていないところがまた素晴らしく、新たなスタッフ、キャストによる元のシリーズとは違う世界(パラレルワールド)のスター・トレックになっているのだ。だから「スター・ウォーズ」のように円環は閉じてはいない。

 劇場版第1作の「スタートレック」(1979年、Star Trek : The Motion Picture)は本格SF風のアイデアが基本にあり、コアなSFファンをも楽しませた。しかし、ロバート・ワイズ監督によるこの超大作はキャストがテレビ版と同じであっても本来スペースオペラであるシリーズとは微妙に味わいが異なっていた。第2作以降は本来のスケールに戻ったが、面白さもそこそこという感じだった。キャストの高齢化も一般受けしない原因であったように思う。今回の映画も話のスケールとしては決して大きくはないが、そのスケールの中でめいっぱいのアイデアと巧みな演出が駆使されて、シリーズの中では破格の面白さとなっている。

 話は西暦2233年、連邦の宇宙船USSケルヴィンが巨大な宇宙船から攻撃を受ける場面で始まる。死亡した船長に代わってジョージ・カーク(クリス・ヘンズワース)が指揮を務め、乗組員800人を脱出させた後、ジョージは生まれたばかりの息子にジェームズと名前を付けて船と運命をともにする。船長を務めたのはわずか12分間だった。25年後、ジェームズ・タイベリアス・カーク(クリス・パイン)は宇宙船USSエンタープライズに乗り組むことになる。バルカン星域にワープしたエンタープライズはそこで巨大な宇宙船と遭遇する。宇宙船はブラックホールによるタイムスリップで未来から来たもので、ロミュラン人船長のネロ(エリック・バナ)は連邦への復讐を図っていたのだ。

 カークがエンタープライズに乗り組んだ後、ドクター・マッコイやスコット、スールーらおなじみの面々が次々に登場してきてファンならうれしくなるだろう。さらに中盤から映画は面白さを加速していく。カークとスポック(ザッカリー・クイント)の確執を軸に笑いを織り交ぜて進行する語り口は見事と言って良い。監督のJ・J・エイブラムスはトレッキーではないそうなので、シリーズを知らない一般観客へのサービスをてんこ盛りにしているのだ。エイブラムス、「M:i:III」でもスピーディーな演出に冴えを見せていたが、今回もその演出に誤りはなかった。クリス・パインも若くて元気の良いカークを好演しており、映画の出来が良かったこともあって、既に第2作の製作が決まっているそうだ。唯一、気になったのは死者をむち打つようなロミュランへの仕打ちだが、目をつぶっておく。

 スポックの母親役の女優が美人だなと思ったら、久しぶりのウィノナ・ライダーだった。残念なことにライダーの写真はパンフレットにはなかった。

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2009年6月 2日 (火)

「天使と悪魔」

「天使と悪魔」パンフレット  ダン・ブラウンのベストセラーを「ダ・ヴィンチ・コード」に続いて、ロン・ハワード監督が映画化。原作は未読、前作も見ていないから比較のしようがないが、アキヴァ・ゴールズマンとデヴィッド・コープが脚本を書けば、これぐらいの話になるのは当然で、この過不足ない脚本を得てロン・ハワードはスピード感たっぷりの演出で2時間18分を突っ走る。ハワードは正統的なハリウッド映画を継いだ監督で、こうした大作を撮るのにふさわしい。特に後半の展開とクライマックスのスケールの大きさには見応えがあった。ハンス・ジマーの音楽もスピード感とサスペンスを大いに煽っている。しかし、面白いだけの映画という言い方がピッタリ来るのが悲しいところ。後に何も残らないけど、面白ければいいんじゃない、という映画なのである。登場人物のキャラクターを描き込めば、サスペンスはもっと高まっただろうし、情感も生まれただろう。そこがすっぽり抜け落ちているのが残念だ。ハワードは面白い映画について何か誤解しているのかもしれない。

 スイスの欧州原子核研究機構(CERN)で生成に成功した反物質が何者かに強奪される。同じころ、4人の枢機卿が誘拐され、カトリックに憎しみを抱く伝説的な秘密結社イルミナティから脅迫状が届く。折しも、ローマ教皇が死に、ヴァチカンでは次の教皇を選ぶコンクラーベが行われようとしていた。イルミナティは教皇候補を殺すとともに、反物質によって、ヴァチカンを消滅させようとしているらしい。ハーヴァード大学の宗教象徴学教授のロバート・ラングドン(トム・ハンクス)はヴァチカンに呼ばれ、CERNの女性科学者ヴィットリオ・ヴェトラ(アイェレット・ゾラー)とともに4人の枢機卿の行方を追う。やがて枢機卿は1時間おきに殺されていく。そして反物質の爆発リミットが迫ってくる。

 前半、枢機卿が1人ずつ殺されていく場面は殺し方にそれほどの工夫がなく、ラングドンがちっとも間に合わないのに加えて構成もやや単調。火あぶりにされる枢機卿の場面はやっと間に合ったかと思ったら、警官隊が犯人1人に手こずって次々に殺され、枢機卿の火あぶりを促進するような結果になってしまう体たらく。タイムリミットが迫ってから面白くなったが、ツッコミ所は多く、なぜ反物質の生成が犯人に分かったのかとか、なぜ研究所に忍び込めたのかとか、あまりに敵側のスケールが小さいのではないかとか、気になってくる。脚本は細部の説明を省略してスピード感に力を入れたのかもしれない。映画としてはそれほど間違っていない脚本の作りだが、やや荒っぽいところはある。

 ヴィットリオ役には当初、ナオミ・ワッツがキャスティングされる予定だったそうだ。ワッツならもっと情感が生まれたのではないかと思う。アイェレット・ゾラーは姿形は整っているけれども、どうも魅力的な雰囲気に欠ける。もっとも、この華を添えるだけに等しい役柄では魅力を発揮するのは難しかったのだろう。

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2009年5月30日 (土)

「ROOKIES 卒業」

「ROOKIES 卒業」パンフレット  卒業式後に野球部の生徒1人1人が監督の川藤に向かって感謝の言葉を次々に言うシーンがうんざりするほどダサイ。だめ押しのだめ押しのだめ押し的なおまけのシーンで、セリフもありきたり。そこまでのドラマもありきたり、かつダイジェストみたいな内容だなと思って見ていたが、最後まで感心した部分は皆無だった。よくこんな粗雑な脚本で映画化にOKが出たものだと思う。題材自体は良いのにうまく生かせなかった、というか脚本家に話を作る才能がなかったのだろう。おまけに演出も凡庸。映像で語るシーンがなく、言葉でしか表現していないのは映像で語る才能が欠落しているからなのに違いない。だからテレビ版の美点だった出演者たちの熱さが効果を上げていない。どこを切っても平凡のかたまりのような凡作で、こういうお手軽な映画に1800円も払うのはバカバカしいことこの上ない。脚本のいずみ吉紘、監督の平川雄一朗ともテレビ版のスタッフだが、テレビをそのままのスケールで映画化していると、いくら日本映画が好調といっても観客に飽きられてしまうだろう。

 森田まさのりのベストセラー・コミックをドラマ化したテレビ版は最終回だけじっくり見た。それがなかなか面白かったので、最初から見てれば良かったかなとちょっと後悔した。再放送時にちらちら見たが、佐藤隆太をはじめとする出演者たちの熱さに好感を持った。映画は二子玉川学園高校(ニコガク)野球部の新入生2人のエピソードと夏の甲子園の東東京予選、そして卒業式までを描く。この構成がまず無茶である。2時間17分と長い上映時間にもかかわらず、話を描き切れていないのだ。上映時間が限られる映画には省略の美学があるが、この映画の東東京予選の描き方、省略の仕方には美学のかけらも工夫もない。単にダイジェスト的に見せているだけだ。ここは安仁屋恵壹(市原隼人)と相手チームの投手との因縁にもっと話を絞った方が良かっただろう。目指したものは野球映画ではなかったらしいが、予定調和的に勝っていくニコガク野球部にリアリティはまったくない。卒業式のシーンなどは長すぎるエピローグとしか思えず、甲子園のベンチを出て行く選手たちのストップモーションで終わっていれば、まだましだっただろう。

 「夢にときめけ、明日にきらめけ」などポンポン出てくる熱い言葉は、繰り返されるうちに言葉だけが軽く軽く浮揚しているだけに思えてくる。熱さを表現するには言葉だけではなく、それを裏打ちする熱いドラマが必要だ。

 キネ旬5月下旬号のプロデューサーと監督のインタビューによれば、テレビドラマ製作時に意識したのは「スクール・ウォーズ」だったそうだ。僕はこのドラマも見ていないが、映画版「スクール・ウォーズ HERO」(2004年)には感心した。ベテランの関本郁夫監督が過不足のない描写できっちりとした熱血青春映画に仕上げていた。平川監督は「ROOKIES 卒業」が映画3作目だが、どうもこの映画の失敗は脚本家も監督も映画のリズムに慣れていないことが原因にあったのではないかと思われてならない。

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2009年5月23日 (土)

「永遠のこどもたち」

Orfanato_2  端正なゴシックホラー。アレハンドロ・アメナーバル「アザーズ」との比較をよく見かけるが、いなくなった子供を捜し回る母親という設定から「ポルターガイスト」、古い屋敷を調査するサイキック(霊媒)が出てくる点で「ヘルハウス」、袋をかぶった子供を見て「エレファント・マン」、古い8ミリの映像から「リング」を連想した。そうした諸々の過去の映画を連想してしまうのは映画の内容自体には新しい部分があまり見あたらないため。「アザーズ」は話に大きな仕掛けがあったが、この映画はオーソドックスそのものなのだ。もう少し新しさも欲しいところだが、母の愛を中心に組み立てた脚本は悪くないと思う。これが監督デビューのフアン・アントニオ・バヨナ(Juan Antonio Bayona)は手堅い演出を見せ、ホラーであるにもかかわらず、映画を悲劇に終わらせず、穏やかで幸福感あふれるラストに着地してみせる。「キャリー」風の人を脅かすような演出もあるのだけれど、基本はじっくりと怖い空気を醸成しているのが好ましい。

 ラウラ(ベレン・ルエダ)は夫のカルロス(フェルナンド・カヨ)、息子のシモン(ロジェ・プリンセプ)とともに海辺の屋敷に引っ越してくる。この屋敷はラウラが育った孤児院だった。ここに障害を持つ子供たちのためのホームを造ろうと、ラウラは計画していた。シモンには空想癖があり、屋敷の中や海岸の洞窟で見えない子供としゃべっている。入所希望者を集めたパーティーの日、ラウラに叱責されたシモンは姿を消す。屋敷には以前からポルターガイスト現象が起きており、霊媒(ジェラルディン・チャップリン)の調査で、孤児院だったころ、子供たちに悲惨な事件があったことが分かる。シモンの失踪はその子供たちの霊と関係しているらしい。

 登場する死者の霊に悪意はない。これが直接的な描写ばかりのホラーが蔓延するアメリカ映画なら、相当に恐ろしい存在として描いたことだろう。過去の2つの事件のうちの1つを発展させれば、これは「リング」の貞子のような恨みのかたまりの化け物を設定することも可能だった。それをやらず、話を母の愛にまとめた脚本(セルジオ・G・サンチェス)は賢明だったと思う。シモンが生者と死者の境界を乗り越えられるのは難病にかかっていたからという説明にも違和感はない。

 「ポルターガイスト」のジョベス・ウィリアムズが魅力的であったように、この映画のベレン・ルエダも1人で映画を背負っている。アメナーバルの「海を飛ぶ夢」で女優デビューし、これが初主演作。1965年生まれで、40歳を過ぎてからの初主演は遅いが、今後も出演作を見たい。

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2009年5月13日 (水)

「スラムドッグ$ミリオネア」

「スラムドッグ$ミリオネア」パンフレット  2000万ルピー(約4000万円)の賞金などジャマールにとってはどうでも良かったに違いない。愛するラティカが無事であり、悪党から逃れられたことが確認できたのだから。愚直なまでに一途なラブストーリーであり、その強いハッピーエンドへの希求がすべてのご都合主義を粉砕する映画である。ジャマールが欲しかったのは賞金ではない。ラティカの愛だけだった。スラム出身の無学な青年なのにクイズの正解を続けられたのは偶然でも運でもなく、運命だったという開き直りの結論が心地よい。

  かつてハリウッド映画はこういうタイプの映画を数多く作っていた。僕らはその嘘に心地よく騙されていたのだけれど、そのハリウッド映画のタッチをよりリアルで過酷で悲惨な設定の下で作ったのがこの映画だ。虚構をもっともらしく見せるにはリアルな設定が必要なのだ。ダニー・ボイルはハリウッドの監督ではないし、舞台となったムンバイもハリウッドのような夢の都とは正反対の所だけれど、アメリカンドリームならぬインディアンドリームを描くこの映画はハリウッド映画の精神を確実に継承した映画にほかならず、だからこそアカデミー8部門受賞につながったのだと思う。楽しくて仕方がないエンドクレジットまで充実しまくりの傑作。

 ヴィカス・スワラップの原作「ぼくと1ルピーの神様」は買っているが、未読。主人公のジャマール(デーヴ・パテル)は携帯電話会社のお茶くみで、テレビ番組のクイズ$ミリオネアに出演する。1000万ルピーを獲得し、あと1問というところで司会者が警察に通報したために、逮捕される。スラム出身のお茶くみが正解を出し続けられるはずはなく、不正を働いたと疑われたのだ。ジャマールは警察で拷問を受け、なぜ正解できたかを話し始める。どの問題もジャマールがこれまで送ってきた生活にかかわっていた。ジャマールの回想で描かれるムンバイのスラムの描写はひたすら悲惨だ。ジャマールは兄サリームと母親と暮らしていたが、母親はヒンズー教徒の暴動で殺される。幼い兄弟は逃亡の途中、少女ラティカと出会う。ゴミ捨て場で3人で暮らしていた時、ママンという男の一味が声をかけてくる。ママンは子供を集め、物乞いをさせることで金を儲けていた。しかし、そのやり方には恐ろしい秘密が隠されていた。

 前半の拷問場面やママンの一味が子供に行う悪行には直接的な描写はなくても目を背けたくなる(アメリカではR指定だった)。3人はそれぞれの道を歩まざるを得なくなり、離ればなれになるが、ジャマールはいつもラティカのことを気にかけていた。ジャマールは兄に再会し、ラティカの行方を突き止めるが、ラティカはどこにも逃げられない環境にある。ジャマールの「愛している」という言葉に「それで?」という答えしか返せないあきらめの状況。他の男のものであっても、顔を傷つけられていてもラティカを求め、救おうとするジャマールの一途さが力強い。悲惨な運命から立ち上がってくる奇跡を描いて、この映画、まったく隙がない。スラムの人たちがテレビを見てジャマールに声援を送る場面は「ロッキー」を彷彿させた。夢と希望をあきらめない姿勢を真正直に描いて冷笑とも気恥ずかしさとも嘘くささとも無縁の映画になっているのが最大の美点だと思う。

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«「接吻」